【あすなろ帖】創作・趣味と読書・あの世と宗教のお話

創作は童謡と詩。趣味は音楽鑑賞や折り紙。読書は哲学・宗教・小説・コミック等々。あの世の話や、また仏教・キリスト教・神道・新宗教等々、まだまだありますが、50年近く私の学んで来た事をご紹介したく思います。2019/10/5

梁塵秘抄讃偈|遊びをしようと生まれたのだろうか|古典への一解釈です

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平安時代の歌謡を集めた「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)
その中では何といっても、次の歌が有名でしょう。

遊びをせむとや生まれけむ戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ遊ぶ子供の声聞けば我が身さへこそゆるがるれ
(梁塵秘抄・四句神歌)

この歌について以前調べると色々な解釈がなされている事が分かりましたが、中には納得しかねるものもありました。(注)ですが、もとより私の解釈が絶対だなどと言う積りもありません。以下は1つの受け止め方だとお考えください。
(より客観的と思われる解釈だけを知りたい方はスルーして、記事の最後をご覧ください。直訳とかはそちらにあります)

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梁塵秘抄讃偈】りょうじんひしょうさんげ

「讃」は「讃美歌」の「讃」と同じで「たたえる」こと、
「偈」は仏教でいう詩のことです。
この有名な歌によせた詩です。
2種類つくってみましたが、ほぼ同じ意味です。


(口語)

遊戯三昧(ゆげざんまい)の 言葉もある。
み仏と同じ たねを持ち、
み仏の子の 私だもの、
遊びに 生れて 来たのだろか。
戯れたくて 来たのだろか。

大仏の掌(て)は 大きくて、
広くて広くて 果てもない。
悟空の乗った 觔斗雲(きんとうん)、
飛び出そうにも 出来はしない。
子供の遊びに 似てようよ。

富士のお山を 飛びこえて、
蓬莱山(ほうらいさん)を まだ越えて
飛ぶ鳳凰(おおとり)に なったとて、
仏の目からは 小雀(こすずめ)か。
み仏は、さても 大きかろ。

世界はこのまま 仏の世。
自分はこのまま 仏の子。
お堂の前の この小道、
子供らの 遊ぶ 声きけば、
私の体も 舞うようだ。


(文語)

遊戯三昧(ゆげざんまい)の 言葉あれば、
み仏と同じ たねを持ち、
み仏の子の この我が身、
遊びをせんとや 生(あ)れにかし。
戯(たわぶ)れせんとや あれにかし。

仏の掌(みてな)は 大いなり。
広大無辺 果てもなし。
悟空の乗れる 觔斗雲(きんとうん)、
飛び出でんとも 出づるなし。
げにこそ 遊びの 心地すれ。

富士の山をぞ 飛びこえて、
蓬莱山(ほうらいさん)を なお越えて
飛ぶ鳳凰(おおとり)に なるとても、
み仏の目には 小雀(こすずめ)か。
み仏は かくも 大いなり。

この世このまま 仏の世。
この身このまま 仏の子。
お堂の前なる この小道、
わらべらの 遊ぶ 声きけば、
わが身こそ 舞う 心地すれ。

この歌は「神歌」となっていて元来宗教的な歌だと思われます。なので私などは次のような感慨をもつ訳なのです。

さて、この詩を私が書いたのは実はもう大分前の
ことなのですが、
今回子供の遊んでいる様を想像してみたら、毬つきをしているような気がして来ました。

すると子供の体の弾むさまと、見ている歌い手の体まで弾むのが如何にも自然なようにも思われ、ついには「毬と殿様」の歌まで連想してしまった次第でした。

皆さんはどう感じられたことでしょうか?

(注)
納得がいかなかったというのは、こんな解釈です。
これを歌ったのは娼婦であり、自分を恥ずかしく思いながら歌ったのだというのですが、何処からそんな解釈がでてくるのか分かりませんでした。