【あすなろ帖】創作・趣味と読書・あの世と宗教のお話

創作は童謡と詩。趣味は音楽鑑賞や折り紙。読書は哲学・宗教・小説・コミック等々。あの世の話や、また仏教・キリスト教・神道・新宗教等々、まだまだありますが、50年近く私の学んで来た事をご紹介したく思います。2019/10/5

改稿/ローモンドの岸辺にて/ロッホ・ローモンドに

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本日、スコットランド民謡の「ロッホ・ローモンド」について調べてみましたが、訳詞にも色々あるようです。

私がかってより愛唱していたのは、次のようなものです。これでは「ロック・ローモンド」となっています。調べてみるとロックでも元の発音に近いそうです。
(緒園涼子・訳)

懐かしき河の岸辺
光まぶしロック・ローモンド
友と手を組みさまよひたる
この岸辺ロック・ローモンド

* 君のぼり我は下る
行く手は同じスコットランド
また語る時もあるまじ
美わしきロック・ローモンド

君と別れかわしたる
谷の坂よ ベン・ローモンド
山波赤く入日に映え
月昇りそめぬ

*(繰り返し)

鳥は歌い花咲きて
木は眠り静けし
わびしき胸に春還らじ
悩み今消ゆれど

*(繰り返し)

こういう詞ですが、歌集を紛失してしまい、私はところどころ間違って覚えて居ました。
例えば「また語る時もあるまじ」は「また会える時もあるまじ」と歌っていた次第でした。今回調べて間違いが分かりました。

この歌でよく分からないとされるのが「君のぼり我は下る/行く手は同じスコットランド」の箇所です。私は、河の岸辺を、友人は上流へと行き自分は下流へと遠く離れていくが、スコットランドは広いのでどちらも同じ国にいることにかわりないが「また会える時」は来ないだろうという意味だと思っていました。

今回調べてみて、それは誤解だったと分かったのですが、以前は間違った解釈だったので、ある時、この歌の連想から次のような詩を書いたものでした。


【ローモンドの岸辺にて】

なつかし岸辺よ ローモンド湖
幾たび 君と あい見たるか
幾たび 言葉を かわし来しか
されども 今は 別れのとき

君は 流れを 上(かみ)に昇り
吾れは 流れを 下(しも)にくだる
往く先は 同じ国にあれど
また会う時は よも有るまじ

ただ 行く流れの 果てぬごとく
君も吾れも 世を 去りてのちも
かの国に 生の 続くをぞ 思う
永遠(とわ)の いのちの 果てぬをぞ 思う

逢いなば 別かるる さだめ在るも
この世のときは やがて去りて
終りなき生を 行く 吾れらの
かの世にて また 会うを得べし

なれど思うは 今の岸辺
君との時は 忘れがたし
君の幸(さち)のみ 今は祈る
なつかし日々よ この岸辺よ

これは、今生ではもう会えないだろうと諦めて別れを告げるという切ない話になっています。
御釈迦様が人生上の8つの苦しみをあげたその1つに「愛別離苦」があることを思い出しますが、そうしたことはあっても、あの世とか来世があるならばまた会える日もあるだろうということを歌ったわけで、これはまたこれで良いものになったかと思うのです。

ところでこの詞の起源には有力な説があって、史実を踏まえたものらしいのです。
スコットランドでは昔、有名な戦争がありましたが、そこに従軍した2人がありました。1人は死に1人は助かりますが、この歌は死んだ兵士が歌ったということになっているそうです。
「君のぼり我は下る」の箇所は他の訳詞では「君は高い道を行け、ぼくは低い道を行く」とあります。
これはケルト人特有の信仰で、死者は地上よりも低い所におもむき、そして生きている人よりも速く移動できるというのです。
ですから、戦場でいったんは別れた2人は、共に郷里のスコットランドを目指すが、死んだ自分の方が先に帰れるだろうと歌っているといいます。ですから次のような訳詞もありますが、こういう信仰を知らないとちょっと意味不明でしょう。

おお、君は高い道を行け、
ぼくは低い道を行く。
スコットランドにはぼくが先に着く。
(三宅忠明・訳)

こんなわけで、確かに元の歌詞に忠実なのに越したことはないのでしょうが、背景を知らないとまるで意味不明になってしまうのを愛唱するというのも、ちょっと無理でしょうし、ある程度アレンジもあって良いだろうと思われて来ます。
げんに、今回見てみたあるサイトでも、日本ではちょっと理解しにくいので設定を変えて少し別の話にしたという試みもありました。そういうことも、またありかなと思われます。
これを恋人との別れとした訳もあります。ならば先だっての私の詩のような解釈もあり得ようかと思うわけなのです。