【あすなろ帖】創作・趣味と読書・あの世と宗教のお話

創作は童謡と詩。趣味は音楽鑑賞や折り紙。読書は哲学・宗教・小説・コミック等々。あの世の話や、また仏教・キリスト教・神道・新宗教等々、まだまだありますが、50年近く私の学んで来た事をご紹介したく思います。2019/10/5

高倉健・吉永小百合主演『動乱』(思い出の映画)・夫婦愛と歴史と。製作者の意図は何なのか?

今日は言うまでもなく、二・二六事件の起きた日ですが、私は未だ詳しい事実を知りません。

『動乱』という映画のタイトルはこの事件のことであるのですが、事件に興味があったことよりも、主演の二人の演技が見たかった訳でした。
特に吉永小百合の大ファンですので、彼女を見たかったのが正直なところでした。

それと、タイトルの事件そのものがクライマックスにはなっているものの、主軸は主演の二人が夫婦になるまでの経緯と夫婦になってからの生活にあると言えて、恋愛結婚であるだけに、恋愛映画という趣が強かったという印象があるのです。

高倉健は例によって寡黙な男の役がぴったりとおさまっているのですが、吉永小百合の演技はそれ以上に素晴らしく思えました。
映画はあまり見ないのですが、あの『夢千代日記』の素晴らしさにも似た最高の演技だったと思うのです。

中でも、事件の後に首謀者として死刑になる直前の夫と、その妻との別れのシーンは抜群で、夫婦愛の極致という感がありました。

高倉健吉永小百合との共演について語っているのをテレビで聞いたことがあるのですが、この映画の他にも共演したものがあるかどうかは知りません。
たぶん間違いなく、この『動乱』のことだと思いますが、吉永小百合の演技に魅了されたと見えてしばし夢を見ている心地だったらしいのです。
彼女の演技が特別に素晴らしいことを語り、そしてその共演のシーンを終えてから、われに帰って、(ああ、いま、演技していたんだなあ)と、われに帰ったと言っていました。その言葉をはっきり覚えています。
これは役者が語った言葉としても、稀な言葉と言えましょうか。
高倉健もいいのですが、彼にこんな思いにさせた吉永小百合の演技はそれにも増して素晴らしいものだったように思うのです。

この映画について思うのは、主にそんなことであり、タイトルになっている二・二六事件についての興味は薄いのです。
確かに主人公は当時の社会や政治を憂いて行動をおこしたのでしょうが、その事情や心理的な葛藤などは殆んど描かれてはおらず、彼らがなぜ事件を起こしたかについても映画からはよく分からなくて、歴史に材をした作品としては物足りない気がしました。

けれども、作品の主題が事件そのものよりも、そりを背景とした男女の愛のドラマにあったとしたならば、その事は作品の短所とは言い難いことになろうかと思います。
ならば『動乱』というタイトルから思わせる歴史物ではなくて、歴史を背景とした恋愛と夫婦愛のドラマとして楽しめば充分なのではないかと思うのです。

今まで折にふれて「今日は何の日」を書いてきたので、二・二六事件について何か書こうかとも思ったのですが、関連した映画のことを思い出し、結果は事件とは無関係の内容になりました。

これは「日めくり」とは言えなくて、脱線の産物…
ですね…(^-^)
まあ思い出の映画と名演技の記憶という記事として、お許し頂きたく思います。

ん ←これでもタイトルで~す

んんんと きばって こが おんぎゃあ。
かめせんにんの こ、なんにん?
せんにん、まんにん、ごまんにん。
よめさんにんしん、こ、なんにん?
せんにん、まんにん、せんまんにん。

んんんと うなって くち あんぐり。
かめせんにんの とし、なんねん?
せんねん、まんねん、ごまんねん。
くめせんにんの とし、なんねん?
せんねん、まんねん、せんまんねん。

せんにん まんねん ながいきし、
よめさん さんざん つくったら、
なんざん せんで あんざんで、
どんどん うまれて せんまんにん。

うんっと うそつき、すまんねん。はりせんぼんは かんにんな。

しばらくブログも詩もお休みしていましたが、またそろそろ始めたいと思っております。

苦しんでいる方のブログが…苦しみを聞いてあげたく思います。

はてなブログで、こんな記事を見つけました。

本当に底辺まで落ちたとか、無になりたいと書かれています。発達障害の息子さんがいて、ご自身も躁鬱とかをかかえておられるようです。

みずから死を選んだりはされないことを望みますが、万一ということもないとは言えない気がします。
けれども信条の押し付けは通じないでしょうし、むずかしいところです。

まきじさんの記事「落ちて沈んで。 - 発達障害の息子の成長と躁鬱とパニックと」

私自身は信仰を持っていますが、そのような心の拠り所はないようで、記事の中に「押し付けないでほしい」と、はっきり書かれてもいます。

今できることは、ただただ聞き手になってあげるという事しかないと思うのです。
或いは苦しくて、ひとの好意も分からなくなりかけている可能性もあります。私もまだ、よくは分かりませんが…

はてなスターでも良いと思います。
応援していますよという人のメッセージが届けば、それが通じてだんだんに心を開いて下さることもあろうかと思うのです。

私のこの日記を読まれた方は、まきじさんの記事も読んで、何らかの応援をして頂ければと祈念する次第です。

ただし、上にも書きました通り「押し付けないでほしい」と言われていますので、励ましも通じにくくなっているものかとも思います。

忍耐をもって、お付き合いしたく思います。

私はやはり詩人なので、次のような詩を贈らせて頂きました。↓

あなたの記事を読んでから
その内容が気がかりで
ずっと考えておりました
私に何が出来ましょう
何のお役にたてましょう
誰もがみんな違っていて
全く同じ経験を
ともにする人はないのです
安易なことを言ったとて
この苦しみはあなたには
分からないだろうと言われそうで
私は躊躇しています
私に何が出来ましょう
そう問うたとて出来ることは
そんなに多くはないでしょう
でもお話しを聞くだけは
こんな私にも出来るでしょう
愚痴でも何でもいいのです
皆おっしゃってみてください
私は唯々ききましょう
そしてやがては底辺の
暗闇の日々も過ぎ去って
幾らかなりとも良い日々が
訪れて来ることになるように
お祈りをするばかりです

「落ちて沈んで。 - 発達障害の息子の成長と躁鬱とパニックと」を読む

記事を書き直したら古い記事はどうしていますか?

私の疑問なのですが、皆さん記事を書き直したら、古い記事はどうしていますか?

もう8年も前と思いますが、こういう説を読んだ記憶があります。

ブログというのは最新の記事が優先され、過去の記事になるほど見られなくなるので、リライト、つまり古い日付のまま内容を更新しても意味がなく、新しい記事として投稿し直すべきだと云うのです。
で、古い記事の方は削除したら良いともあった気がします。

多分の記憶違いもあるかも知れませんが、これはブログでかなりアクセス数のあった人の意見でした。
で、私はその意見のままに従ってきた訳です。

ところがごく最近、このリライトをよく行っているという人(Nさん)のブログに出会い、調べてみるとやはり多くの人がそうしていると分かりました。
リライトとは「上書き」ですから古い記事は消されてしまう訳で、ひとつしか記事は残りません。
ですが、私が前に読んだ意見についてはどうなのか、よく分からないのでNさんに尋ねてみました。するとリライトしている人は多いし、それでPVが上がったという話もよく聞くといいます。最新の記事が優先されるという考えもあるだろうし否定はしない、ただ、古い記事は消去すればいいというのは良く分からないというのです。

未完

星野源の名言

1月28日の今日は、星野源さんの誕生日です。シンガーソングライターとしての活躍が特に有名でしょうね。また俳優で著述家という多才能の方です。
過去に大病をされた事から人生を深く考えたということで、その言葉にも良いものが見受けられるようです。
いくらかご紹介してみます。

あと少しで死んでしまうというとき、走馬灯のように人生を振り返って「ああ、ひとりじゃなかったんだ」と思えたら、きっとすごく幸せなんだろう。

あの人みたいになりたいとか思うんだけど、それをやるには自分がかっこいいと思うことをするしかなくて。

いつも曲を書き、ひとりで歌っている部屋が、地球全体と繋がったような感覚です。

今まであった苦しみは全部自分の欲から生まれてきてる。

寂しすぎるって言って死んだ後も寂しいんじゃないかと。だったら今頑張ろうかな。

死は、一生懸命生きた人に与えられるご褒美なんじゃないか。

自分の体を傷つけずにいられない人や、人を陥れることを生業としている人だって、それはある部分で幸せを追求しているはず。

自分のことばかりを考えている人より、人をあっさりと思いやれる人のほうが魅力的に見える。

人生には「意味」よりも大切なものがあるかもしれない。

ただ、なんとなく思っているのは、たぶん、死ぬことを書きたいんじゃなくて生きることを書きたいんだと思うんですよ。で、生きることを正直に書くと、死ぬことを書かざるをえないっていう。

多分お金さえかければできると思うんですよ。自分はそれよりも、限られた条件の中で何ができるか?っていうことに興味があるんです。

作る時も頭で考えてるっていうよりは自分がワクワクしたらOKみたいな。

ただ叫んでいてもどうにもならないが、行動に移せば十秒で終わる場合もある。

どんな遠い世界も近所だと思います。

中身が変わることによってその人が変わるでしょ。で、その人が変わると、ブサイクだとしてもブサイクの顔が良いって認識にみんななる。

人間はどんな状態であろうと、その中で幸せを無理矢理にでも探し出し、それを糧に生きてゆく。


さて、唐突ですが最近「霊言」というものが本として多く出ているのをご存知でしょうか?
霊というのは幽霊ばかりでなくて、ちゃんとした天国に帰っている人達ももちろんいるわけで、そういう人の霊は、なかなか良い事を通信して来ることがあります。
といっても目に見える姿を現すことは少なくて、多くは特殊な能力をもった人の口を借りての言葉なので……真偽を見極めるのは難しいことがしばしばなのでが。

で、ここに星野源の守護霊の霊言というものが出ています。
今をときめく幸福の科学の本ですので、一応ひとつの情報としてお伝えしておきます。

野口雨情を都市伝説のネタにしないでくれ~

1月27日の今日は野口雨情が亡くなった日です。そこで雨情について調べていたら、永六輔が色々なことを発言していることを知りました。
例えば、

七つの子は強制連行された朝鮮人に同情して書いたもので、炭鉱で真っ黒になった彼等をカラスにして表現した

というのですが、どこからこんな説が出て来るのかと呆れてしまいます。他にも「赤い靴」や「あの町この町」をあげていますが、どれもこれも童謡の背後に政治思想のようなものがあると断じている点では同じです。そして3つとも自分ではなくて子供や他人から聞いた話だと云うのですが、そんな似た話が3つも重なる筈もなく、言い逃れる為の嘘だろうと思います。
これは永さんに限りません。なぜ最近の人は、色々な都市伝説のようなものを作るのでしょうか。大いに疑問を感じます。

川崎洋の詩『ほほえみにはほほえみ』より

1月26日は、詩人の川崎洋の生まれた日です。
この人の名は知っていましたが、その作品は全然知らなくて、今日検索してみて知りました。
こんな詩があります。

【ほほえみにはほほえみ】

ビールには枝豆
カレーライスには福神漬
夕焼けには赤とんぼ
花には嵐
サンマには青い蜜柑の酢
アダムにはいちじくの葉
青空には白鳥
ライオンには縞馬
富士山には月見草
塀には落書
やくざには唐獅子牡丹
花見にはけんか
雪にはカラス
五寸釘には藁人形

ほほえみにはほほえみ


何とも不思議な詩ですね。題名が目に入って検索してみたのですが、ほほえみという文字どおりの微笑ましい内容が全てではないのですね。五寸釘に藁人形というのはどうしてなのでしょうか?

この他にも目に入った詩はあるのですが、いったん投稿することにします。