真実の愛とは何か | 里中満智子と幸福の科学に学ぶ
無償の愛といわれます。
ただただ与えて与え尽くす愛です。真実の、本当の愛とはそういうものです。
元々、親の愛とはそういうものでした。ただただ子供の幸福だけを願う愛でした。
しかし今では違って来ているのでしょうか。
子供を自分の所有物のように考えたり、子供からの見返りばかり考える親が増えて来ているかのようです。
ですが、真実の愛とはそういうものではありません。
真実の愛を知りたければ、太陽を見よとも言われます。太陽はただただ光と熱とを与えて、何一つ見返りを求めません。
愛とは、人間のいだき得る最高で最大の感情であると思います。
例えば男女の愛にしても、単なる本能的な愛にもなるけれど、太陽のような与えきりの愛へと昇華させていくことは可能なのです。
神の本質は愛であるともよく言われています。
この宇宙を創り、一切の生物をも創った方である神は、まさに真実の親の思いで全宇宙を創造され、人類をも創造されたのだと私は学んでおります。
人は皆、神の子であり仏の子です。
そして、神の本質が親のような無償の愛であるならば、私共の本質もまたとその愛に他ならないのではないでしょうか。
ところで、仏教ではこういう愛という言葉は使いません。その代わりに慈悲と言います。
どちらも同じ意味です。
仏教では、また仏性ということも説きます。
それは宇宙の本質である仏にも通じる性質が、人間一人一人にも宿っているという事です。
その仏性の中に一切があり、私達の持ち得る愛とか信仰心などの、諸々の宝があるのだと知らされております。
これらの事は私は、幸福の科学において学びました。
例えば『無限の愛とは何か』という本では、天国からイエス・キリストご本人が降りて来て語られています。
さて、この記事を書こうと思ったきっかけは実はこんな事でした。
日々、日めくりの記事を書いているので調べたら、昨日が里中満智子さんの誕生日だったのです。
里中さんの読者ならご存知でしょうが、彼女は真実の愛とは何かということをずっと追求して来られた、まれにみる方です。
私は代表作の『天上の虹』はほんの少ししか読んでいないのですが、昔の作品はもう暗記するほどまでに愛読して来たものです。
ですから、私が推薦できる資格があるのは、やはり昔の作品ということになりましょう。
つまり『あした輝く』を筆頭に『アリエスの乙女たち』『あすなろ坂』『海のオーロラ』といった作品です。
入手できにくい作品もあろうかとは思いますが、何れも読んでいただく価値のある作品だと信じる次第です。
白秋の名作です…
1月25日の今日は、北原白秋の生まれた日です。
で、私が好きな作品を思い出してみたのですが、不思議な事に題名に「から」の付く詩が三つもありました。こういう言葉の響きを白秋は好んでいたのか?それとも単なる偶然なのでしょうか?
からたちの花が咲いたよ
からりこ
落葉松(からまつ)
この三つです。
そして今日調べたら「とんからこ」という詩もありました。
これも「から」を含み、この題名は機織りの音をあらわしているようですが上記の「からりこ」にも全く同じ事が言えるのです。
そしてこれら四つの詩は何れも有名で曲がつけられているものが殆どです。次にご紹介します。
一一一一一一一一
からりこ
からりこと
音が してるよ
からりこは
下の 谷間よ
からりこの
窓は 日和(ひより)よ
からりこよ
菊の さかりよ
からりこと
筬(おさ)が はずむよ
からりこと
こだましてるよ
からりこよ
誰か 見えたよ
からりこの
音が やんだよ
(注) 筬とは織機の付属品です。
一一一一一一一一
落葉松
落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしく物あはれなる、ただ心より心へ伝ふべし。また知らむ。その風はそのささやきは、我が心の心の(原文のまま)ささやきなるを、読者よ、これらは声に出して歌ふべききはのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ。
一
からまつの林を
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり。
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
一一一一一一一一
とんからこ
舌を切られた 小雀は 小雀は
泣く 泣く お宿へかへります
泣いても 泣いても 口きけず
ほろ ほろ 涙で とんからこ
春着のべべでも織りましょか
とんとんからりこ とんそろり
とんとんからりと 織ったとて
織ったとて
切られたお舌は川の中
とんとんからりこ とんそろり
ほろりこ ほろりこ とんほろり
西郷さんを手本にして | 誰もが手本にしたいでしょうね・・
1月23日の今日は西郷隆盛の生まれた日ということです(西暦で)。旧暦だと12月7日だそうです。で、こんな事を思いました。
正しいと思うことをやり、
いじめに出会うこともある。
それがいったい何だろう。
一生懸命しゃべったら、
おしゃべりすぎると非難され、
話しても無駄と黙ったら、
口はないのかとののしられ、
ちょうどほどよく話せても、
口先ばかりと、なじられる。
だから、ひとなど気にするな。
ただ実力をつけてゆけ。
西郷さんを見たならば、
まるで大きな樹のようだ。この樹は何も語らない。
この樹はどっしり動かない。
でも優しいと分かるから、
みなが集まり、慕われる。
西郷さんも、いじめられた。
島流しにも二度あった。
そうでも意思を変えないで、
さらにたくましく生きたから、
立派な仕事が出来たんだ。
罪人にさえされたけれど、
屈することはなかったんだ。
今の僕らのいじめだって、
やがては消えてゆくだろう。
ひとが何をして来ようとも、
正しいことは正しいんだ。
信じることを口にして、
信じる行為をしてゆこう。
誰も認めてくれなくとも、
お日様だけは知ってるんだ。
出典について。
「一生懸命しゃべったら」から「口先ばかりと」の辺りは私の言葉ではなくて法句経というお経が元です。といっても、かなり自由にアレンジしてありますけれど・・。元々の意味からは離れていないと思います。
どんなブログが評価されるの?? | 分からなくなっちゃったこと
私が読者になっている「なつやぎ」さんの記事に、次のような部分がありました。いわく、
一一一一一一一一
【ブログが書けない時はリライトに徹する!】
リライトは以前の記事を修正したりお直しを入れることですね。
以前の記事の情報が古くなっていたり、新しい知識を得たものを、ちょこっと直したり、追記したり。(略)
リライトをすることでGoogleさんからも『ちゃんと管理されているブログだな』と評価してもらえるし、最新の情報はユーザーからの信頼度もアップするし一石二鳥!
一一一一一一一一
さて以下は、ほぼ私が送ったコメントと同文です。↓
例えば、過去記事をリライトする事ですが、そういう事をマメにしている人のことは知りませんでした。
で、リライトが多く為されているブログがGoogleから「よく管理されている」と高く評価されるとは、思いもよらない事でした。(不勉強でして・・)
有名な与沢翼さんだったかは、ブログは多くの人が最新の記事を読むが、過去記事を読んでくれる人は少いとあった筈で、私もそうだとばかり思っていました。
で、もし過去の記事に手を加えた場合(または手を加えなくて、また読んでもらいたい場合)には、新しく記事を立ち上げて、そこに書き直した記事や、又は手を加えない元の記事を張り付けて公表すべきなのだと思っていました。
(全く同一の記事があるブログがGoogle等でどう評価されるのかは分かりませんが、気になるなら過去の記事を削除するという話もあったかと思います?・・記憶違いでなければ)
という訳で、今までの限られた知識では、過去の記事そのものに手を加えるという選択肢は、全く考えられない事でした。
というのも、大抵のブログでは、記事の日時は最初に投稿したときのものが永久に使われている訳で、のちに更新しても更新の日時が上書きれる事はない(どこかに例外あり?)筈だからで、過去記事を更新したら暫くは新しい記事のあたりに並べてくれる場合もあるようですが、それも、ほんのいっときなのではないかと思い、過去記事は人の目に付きにくい事にかわりはないと考えていました。
こんなことで、昔の記事を日付も変えずに書き換える(リライトとはそういう意味ですよね?)という事が多く為されているブログがGoogleから「よく管理されている」と高く評価されるとは思いもよらない事でした。
もっと勉強しなければいけませんね・・
一一一一一一一一
さて、これはブログとは何なのかという出発点にも関わる問題かと思います。
そもそもはブログの開発者はそれを日記として発想し、その時その時の記録の為のものをと考えたのかと思っていました。それなら、以前の記録に手を加えるというのは例外的な行為となり、日記の定義から外れる事になる筈ではないかという気がしたわけです。
ですから、リライトが高く評価されるというのは、ブログとは何であって、どういうものが良いとされているのかという、根本の問題になってくると思います。
けれども、どう考えたら良いのやら、さっぱり分からないというのが現状です。
これは、ブログを使う以上は避けて通れない点ですので、それこそまた更新しつつ、考えてみたいと考えている次第です。